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デンマーク留学&ヒュッゲな人生の楽しみ方
生涯教育の学校、フォルケホイスコーレへのデンマーク留学体験をもとに、一冊の本にまとめたお話。
福島のサクラ!
福島市飯坂支所前のサクラです。

4月16日正午ごろに撮影をしました。

ちょうどサクラは満開


サクラを見られてとても感動しました。

サクラを観賞すると、やっと東北にも遅い春がおとづれ、

嬉しくなります。


特に、今年はです。



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(サクラをズームアップして撮影

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(彫刻とサクラの木

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(サクラの木

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(福島市飯坂支所前の満開のサクラ




このピンクの花を咲かせている木は、桃です。

福島県の特産物の一つに「桃」があります。

わたしは、この「桃」が、大好物。


今年は、出荷されるかどうか分かりません。

でも、放射線の影響がなく、出荷されたら、「桃」を食べたいです。

真夏に食べる桃は、糖分もあり、夏ばて予防にもなります。


あの美味しい福島産の桃が、食べられますよう願う限りです。


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(福島市飯坂付近の桃畑


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(桃の花が開花






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[2011/04/17 09:08] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
飯館村(いいだてむら)!
福島県飯館村。

わたしは、福島市出身です。

しかし、この飯館村のことは、知りませんでした。


飯館村は、阿武隈山地に位置していて、農業が基幹産業の村です。

1980年代の冷害の影響を受けてからは、畜産業に力をいれ、

「飯館牛」をブランド牛に育てました。


バブルの時代にも、ゴルフ場の開発計画がありました。

が、村は、強く撤回。


福島県内でも、「美しい村・飯館」と称されるようになりました。

その飯館村の農業の取り組みは、全国からも注目されて矢先のことです。


皮肉にも、福島第一原子力発電所の事故の事情はいっぺん。

全世界から、注目されるようになりました。

わたしも、そのときに、この飯館村を知りました。


わたしは、牧歌的な風景が、とても好きです。

話を少し横道にそれますが、自然豊かな村を求め、デンマークのアッセンス市

のヘレネス地区でフィールドワークをしたくらいです。


正直言って、もっと、早く、この飯館村ことを知っていればと、

少し後悔もしています。


今朝の新聞で、

飯館村在住の酪農家さんに取材をした記事が掲載されていました。

ある酪農家さんのことが、紹介されていました。


「飯館村から『農』の種も牛も死に絶えたら、

 若い人が、再び戻ってきて生活を立て直すことができなくなる」

「私たちが食べる野菜だけは、ここで作りたい」

「村が村であるように」



わたしは、この記事を読んで、酪農家さんの苦悩を強く感じました。

そして、飯館村をとても応援したい気持ちになったのです。


しかし、わたしが出来ることは、限られています。

微力ながら、ブログで紹介することです。


いつの日か、再び、「美しい村・飯館」が再生するまで、

わたしは、願い続けます。


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(河北新報2011年4月16日付け記事より)



(参考文献)

・河北新報2010年4月16日付け記事より

「農の村を守りたい」より





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[2011/04/16 08:33] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(4) |
原発事故による避難命令!
もし、私たちが、今まで住んでいる故郷から、

政府は、突然、避難命令を発表したら。

私たちは、どのような気持ちになりますか?


福島第一原子力発電所の事故後。

そのことが、現実的なものとなりました。

事態は、日々、深刻なものになっています。


福島第一原子力発電所から半径20キロ以内に住む住民は、

避難命令が下され、心ならずも避難せざろうえなくなりました。


それから、半径30キロ以内の住民は、政府から、

個々人の自己責任にまかされた、自主避難が発表されました。


この発表後、

20キロから30キロ圏の住民は、外部からの物流、

支援も途絶ました。

秤量攻めのような不安な生活を余儀なくされたと、

南相馬市の市長さんが、強く強く、訴えていました。


この福島県浜通りの地域は、農業、漁業が盛んな地域でした。

住民の一部は、先祖代々の土地を受け継いてきた農家。

生活の糧を得るために、海に出て魚を取る漁師。

牛を飼っている酪農家もいます。


しかしながら、

3月11日の東日本大震災。

津波の甚大な被害。

福島第一原子力発電所の事故後。

住民の生活は、いっぺんしたのです。


母なる大地が、放射線の汚染されたのです。


漁師は、魚を取ることが、できなくなりました。

農家は、野菜を育てることが、できなくなりました。

酪農家は、丹精込めて育ててきた、べコ(牛のこと)

飼育することが極めて困難になりました。


すでに、退避した地域では、大切に飼育されていたべコ(牛)たちが、

放置され、歩き回っているニュース映像を見ました。

その映像からは、何か、空しさを感じました。



あるひとりの酪農家さんが、テレビのインタビューに答えていました。


「もし、わたしが、ここで酪農をあきらめたら、日々の糧を得ることが、出来なくなります」

「再び酪農の再開が、困難になります」

「そのため、わたしは、べコ(牛)の飼育し、搾乳を続けます」


と言っていました。


わたしは、酪農家さんの言葉を聞いて、とても悲しくなりました。

今まで、一生懸命に続けてきた酪農。

この原発事故により、

酪農家さんは、牛を飼育出来なくなってしまったからです。


その後も、政府は、また、避難命令を発表しました。

30キロ圏外に、住んでいる住民も、1ヶ月以内の避難が命令されました。



そのわけは、その土地で1年間生活をし続けると、

放射線を蓄積する量が、安全値の20ミリシーベルトに達するからです。


国際基準によると、一般人の1年間に浴びる放射線の限度量は、

1ミリシーベルト既定されています。

約20倍の値になります。


ただ、わたしは、福島第一原子力発電所から、

約100キロメートル離れた仙台から、

この事の重大さについて、見守るしかありません。


そして、被害に遭われ、避難生活を余儀なくされた方々の、

これからの生活や仕事のことを考えると、

とても大変なことです。


そのため、避難を余儀なくされた方々が、一刻でも早い、

補償と仮設住宅等の生活支援がなされることを、

わたしは、強く願っています。








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[2011/04/15 08:10] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
空路で結ばれた仙台!
復興に向けて、また、ひとつ嬉しいニュースがありました。

仙台空港の再開。


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(「仙台空港再開」2011年4月13日付け:河北新報記事より)




あの大震災と大津波により、滑走路とターミナルビルは、

甚大な被害を受けました。

そして、不眠不休で、「ともだち作戦」を実施しているアメリカ軍と自衛隊が、

一生懸命に、瓦礫を片付けてくれたおかげで、4月13日の再開にこぎつけました。



当面の間は、レーダー施設も被害を受けているため、日没までの

運用のようです。


現在は、

仙台空港と羽田空港。

仙台空港と伊丹空港。

を結ぶ路線を臨時便として運航するそうです。



これで、陸の孤島だった仙台が、空路で結ばれることになりました。

嬉しい限りです。


これで多くの人々が、仙台を訪れることができるでしょう。

それから、ゴールデンウィーク前までには、東北新幹線が仙台まで、

運行が再開されるようです。




わたしから、全世界、全国の皆様にひとこと! 


「どうぞ、仙台にきてけさい(来てください)」

「どうか、自粛は、しないでください

「どうか、東北の地場産品を購入してください」


「どうか、ゴールデンウィークに仙台、東北地方にきてけさい。(来てください)」


自然豊かな宮城、そして東北は、いつでもあなたをお待ちしております。


宮城県には、

秋保温泉。

作並温泉。

鳴子温泉。

遠刈田温泉。

青根温泉。

鎌先温泉。

などの沢山の温泉があります。


それから有名な観光地として、

津波の影響をあまり受けなかった日本三景松島。

もあります。


お土産品には、

かまぼこ。支倉焼き。蔵王の乳製品。

などなど。

まだまだ、沢山あります。


宮城に来て名品を探してみてください。

そして、お土産として買っていってください。


それが、東北経済の復興、ひいては日本経済の復興につながるのです。







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[2011/04/14 09:40] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(4) |
仙台でサクラ開花!
4月12日。

仙台では、サクラが開花しました。


3月11日の東日本大震災から約1ヶ月。

気象庁の発表によると、

サクラの開花は、例年通りとのことでした。


でも、今年の開花は、待ち遠しかったです。

よく、明けない夜はない。

と言いますが、このまま太陽が登らないのではないかと思うほど。

今でも、毎日のように余震が続いています。



それでも嬉しいことが、ひとつあります。

仙台では、花見が行われるというニュースです。

例年に比べて、開催時間やちょうちんの数を減らすそうです。

花見は、日本人の文化の一つ。

花見が開催されることに、わたしは、喜んでいます。


そして、このような大震災からの復興には、

わたしたちの心を和ませてくれる、花見は必要です。


それから、被災され、今でも避難所で生活されている方々への

「心のつかの間の休息」になることを願っています。


そのサクラの開花が、被災したわたしたち東北地方の

「心の復興の原動力」になればと思います。




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(昨年撮影したサクラ:宮城野区高砂市民センター前)

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(昨年撮影した満開のサクラ:宮城野区高砂市民センター前)

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(昨年撮影した満開のサクラ:宮城野区高砂市民センター前)

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(ハクチョウたち:2010年ゴールデンウィーク頃に多賀城市七北田川周辺で撮影)

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(サクラの木:2010年ゴールデンウィーク頃に撮影をした多賀城市七北田川周辺で撮影)






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[2011/04/13 09:11] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(4) |
大震災から今日で一ヶ月!
3月11日の午後14時46分から。

3分間。

あの悪夢は、今でも、恐怖として残っています。

そして、わたしは、地震で揺れていないのにかかわらず、

時折、体が揺れている錯覚を覚えることがあります。


その後、甚大な津波被害。

わたしが、住んでいる家から2キロ先でも、津波をかぶりました。

今でも津波に飲み込まれた自動車。

瓦礫が放置されたままです。

また、津波により家をのみこまれた知人が何人もいます。

「心よりお見舞い申し上げます」

という声を、

わたしは、ただ知人に対して声をかけるしか、ありません。


そして、福島第一原子力発電所から放射能漏れ。

その作業にあたっている、最愛の家族を残して、

放射能除去にあたっている現場作業員の方々には、ただ作業時の健康被害が

最小限でありますよう、願うのみです。


この1ヶ月で、甚大な津波の影響を受けなかった仙台市内は、

復興をめざして頑張っています。

全国からの支援により、水道、電気、ガスも復旧に向けて進んでいます

とても感謝しております。


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(電気工事の様子)



先日の7日のマグニチュード7の強い余震により、

また、鉄道が一時不通になりました。

けれども、自衛隊やアメリカ軍の「ともだち作戦」により、仙台空港の瓦礫が片付けられ、

4月13日には、羽田、伊丹便の臨時運航が行われます。

仙台が陸の孤島でなくなりつつあります。


しかしながら、津波により家が流された沿岸地域の人々は、今もなお、

学校の体育館などの避難所で生活をしています。

そして、避難所での生活のご苦労を察すると、生活再建の第一歩となる

一刻でも早い、仮設住宅へ入居されますよう、願う限りです。


震災からの1ヶ月。

仙台もようやく春を感じるようになって来ました。

「サクラ」もまもなく開花する予定です。

今年のサクラは、とても待ち遠しいです。


サクラが咲く公園でも祭りが予定されています。

それから、とても嬉しいニュースとして、

8月に仙台七夕まつりが開催されると発表されました。


仙台ひいては被災地域では、「まつり」は、復興の起爆剤になるからです。

多くの観光客には、是非仙台、東北地方に来てください。

そして、東北で消費してください。

それが、東北経済の復興に繋がるからです。


最後になりましたが、被災地域でないところで、

なぜか「自粛」が行われています。


わたしは、思います。

なるべくならこの「自粛」はしないでください。

「自粛」は、日本経済にとってマイナスです。

そして、復興のスピードを遅らせます。

どうか、どうか、日本復興のために、

「まつり」「イベント」は行ってください。





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[2011/04/11 10:29] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(4) |
人類へ及ぼす放射線の影響!
日夜、私達のために、放射能汚染と闘いながら、

福島第一原子力発電所内で、働いている作業員の皆様の勇気と

使命感に、一日本国民として、深く感謝しております。


そして、現場作業員の皆様への人体への影響が軽微であることを

強く、心より、祈るのみです。



4月10日付けの河北新報3面に、


(日本政府は)「福島第1被爆量2.5倍新限度適用せず」

(派遣企業は)「作業員納得しない」


という見出しの記事に掲載されていました。


その記事を要約すると、

厚生労働大臣は、福島第一原子力発電所で働く現場作業員の

上限被ばく線量を100ミリシーベルトから250ミリシーベルト

に引き上げをしようとしました。

しかし、派遣労働者たちが、引き上げには反対。

そのため、政府は、現行のまま、上限被ばく量を100ミリシーベルト

維持することにしました。


かつて、作業中に外部被ばくをした現場作業員が、病院に入院。

治療を受けました。

その3人の負傷された作業員の方々は、173~180ミリシーベルトでし

た。


ここで、「人類へ及ぼす放射線の影響」を、新聞記事には、

チャート図がありましたので、紹介いたします。


1回に受ける放射線量の人体への影響


●1回に100ミリシーベルトの放射線量を人体に受けると。

 私達は、直ちに健康には影響しません。

 しかし、数年後から数十年の間にガンになる危険性が、

 0.5パーセント高まります。


●1回に500ミリシーベルトの放射線量を人体に受けると。

 リンパ球が現象します。


●1回に1000ミリシーベルトの放射線量を人体に受けると。

 およそ10%の人々が、吐き気倦怠感を感じます。


●1回に4000ミリシーベルトの放射線量を人体に受けると。

 半数が、30日以内死亡します。  




年間の被ばく線量

0.05ミリシーベルト 

原子力発電所の放射線量。


1.0ミリシーベルト

医療目的を除いた一般人の限度。


50ミリシーベルト

放射線に関係する作業者の限度(通常)


100ミリシーベルト

放射線に関係する作業者の限度(緊急)


250ミリシーベルト

福島原子力発電所の事故後に関係する作業者の限度。


500~1000ミリシーベルト

国際放射線防護委員会(ICPR)が勧告する緊急時の作業員の限度。

「医学的な見地から、白血球の一時的な減少などでない上限値」


原発からの、放射能もれを解決する見通しは、まだ立っていません。

収束するには、1年、3年、5年、10年、

いやそれ以上かかるかもしれません。


作業の長期化は、避けられません。

そのとき、大切な最愛な家族がいる、

現場作業員の、健康面の影響はとても心配です。

現場作業員への、充分な医療的バックアップも絶対的に必要になります。



(参考文献)

『河北新報』 2011年4月10日付け記事より。






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[2011/04/11 07:56] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(0) |
「放射能」」対応が後手に回る政府や厚生行政!
福島県いわき市は、市の一部が福島第一原子力発電所から

半径30キロ以内の地域にあります。

政府からは、「自主避難」地域になっています。


いわき市では、市独自の考えで、住民の不安を和らげるために

備蓄していた「安定ヨウ素剤」を全市民の約15万人に配布。

同様なことが、30キロ圏外の福島県三春町でも実施されました。


国の「安定ヨウ素剤」の配布基準は、妊婦以外の40歳未満までになっています。

しかし、このような原子力発電所からの放射能漏れの大事故があっても、

国からの指示・命令がありませんでした。

またもや、あいまいな自主判断に任されたのです。


そのため、いわき市は、配布した「安定ヨウ素剤」を、

独自の判断で、服用時期も決めることになりました。

そこで、服用に際しては、市が判断したときに服用するようにと、

市民に指示しています。



話が変わりますが、

今まで、わたしは、全くといって良い程、知識がありませんでした。

そこで、新聞やインターネットの情報を元に、

わたしにとっては、知らなかった放射能について勉強を始めたところです。


まず、放射能性物質が、人体に及ぼす影響として、大きく分けて2つあります。

(1)皮膚などに直接、放射能物質が付着する。(外部被爆

(2)呼吸などにより放射能物資を人体の中に吸い込む。(内部被爆


内部被爆で問題になる物質としては、

(1)ヨウ素

(2)セシウム

(3)ストロンチウム

の3つを上げたいました。


ヨウ素」とは、甲状腺に長い間、わたしたちの体にとどめておくと、

甲状腺ガンの確立が高くなります。


セシウム」とは、体内からでやすい物質ですが、筋肉や血液に入ると、

骨髄や腸管に問題が生じてくるそうです。


ストロンチウム」とは、骨に集まり、白血病を引き起こす要因になっいています。


チェルノブイリ事故の後、現地で治療にあたって経験をもつ、

医師菅谷昭(現松本市長)によると、


「前もって15歳以下の子どもたちには安定ヨウ素剤を服用させたほうが良い」

と指摘してます。


その理由としては、甲状腺内にヨウ素を留まらせにくくするからです。


このような安定ヨウ素剤をチェルノブイリ事故後に、

配布した国が、ポーランドでした。

報告によると、事故後、ポーランドでは、子どもたちは、

甲状腺ガンを発症しなかったそうです。


しかし、残念ながら、まだ「セシウム」「ストロンチウム」

を予防する手段はありません。



最後になりますが、

政府や厚生行政は、日本国民が、放射能汚染に怯えることなく、

安心して暮らせるような判断を行って欲しいものです。


残念ながら、今回の原発対応が

国内、海外に対しての情報開示、

どこか、後手後手になっているように、思えてなりません。


(参考文献)

・2011年3月15日 読売新聞電子版より

・2011年3月20日 産経ニュースHPより






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[2011/04/10 08:03] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(6) |
なぜか再び停電?
マグニチュード7.1の余震が、あったのは

4月7日の11時32分。

そのときは、停電には、なりませんでした。


しかし、翌々日の9日の午前0時30分。

恐かったので、テレビをつけて、うとうと眠りにつき始めた頃です。


突然、室内は、真っ暗。

地震から、約1日遅れの停電。


またもや、暗闇の中で夜を過ごすことになりました。

そして、やはり、ラジオをつけて寝ることにしました。

停電のときのラジオ頼みです。


翌日も停電が続き、

約16時間ぶりに、電気が復旧


電気のありがたみをあらためて実感しました。

また、電気の復旧により、わたしは、ブログで発信できる喜びを

感じたのです。







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[2011/04/09 19:02] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
マグニチュード7.4の強い余震!
マグニチュード7.4。(当初発表時)

宮城県沖。

4月7日

午後11時32分ごろに発生。


わたしのいた宮城野区では、震度6強でした。


揺れは、約1分半ぐらい、揺れていたかと思います。

我が家では、以前の地震と比べて、横揺れが強かった思います。


そのため、机が動いたり、

本棚が傾いて、本が床に落下しました。

紐で結んでいなかった、食器棚からは、食器が床に落ちて、

割れて散乱していました。


揺れも強かったので、停電したかと思いましたが、

地震後も電気は、ついていました。

夜の停電は、恐怖そのものなので、電気が使えることは、良かったです。


でも、ガスの使用は、再び中止になりました。


気象庁によると、

「今回の地震は、3月11日に発生した東日本大震災の余震と考えている」

と発表しました。


津波警報がでましたが、1時間半で解除され、ほっとしました。


心配していた原発ですが、ニュース報道によると、

仙台市から約50キロほど離れた女川原子力発電所では、

3月11日の地震直後から、運転を中止。

原子力発電所に送電していた電気は、停止。

バックアップ用の臨時電気で、冷やしているとの報道がなされました。


福島原子力第1発電所に関する報道によると、夜だったので詳細のことは、

わかりませんが、「一応大丈夫である」とのこと。


その発表内容をわたしは信じたいと思います。


やはり、多くの専門家が言っていましたが、

震度6強の余震を仙台を襲いました。


今回の強い余震は、3月11日のマグニチュード9の地震よりも、

内陸側に近いところで地震が発生したので、

揺れがひどかったようです。

地震直後に、鍵を掛けていなかったサッシが10センチほど動き、

開いていました。

これには、とても驚きました。

津波の被害が、なかったことは、とても安心しています。


※ 後日、気象庁よりマグニチュードが7.1へ変更になりました。




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(地震により食器が床に散乱している様子)






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[2011/04/08 09:39] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(4) |
地震へのリスクマネジメント(我が家編)!
人生で初めて、9日間という地震による停電を経験した我が家。


いつくるかと言われてきた「宮城県沖地震」が、

3月11日午後2時46分に仙台地区を襲いました。


その大地震がやってくるのではないかと、

我が家では、備えていたものがありました。


それは、天井までにとどきそうな高い家具に、

ホームセンターで買ってきた、つっかえ棒で固定をしました。

2箇所で設定しましたが、1箇所は、家具が倒れることがありませんでした。



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(支え棒は、物の落下を最低限度におさえました)


それから、食器棚の引き戸を紐で結び、食器が飛び出さないようにしていました。

それもこの大地震では、効果的でした。

揺れにより、食器が飛び出してきて、割れた食器もありましたが、

被害を最小限に抑えられました。


それから、今年の冬は、ダイエットのため、よく鍋料理をしていました。

話は予断になりますが、おかげでダイエットに成功しました。


その鍋料理をするときは、「カセットコンロ」を使っていました。

カセットボンベも2缶ほど予備があり、何とか節約をしながら、使って

急場をしのぎました。


暖房に関しては、石油ストーブを使っていました。

停電当初、18リットルの灯油缶は、1缶半あり、とても助かりました。

でも、余震が怖かったので、あまり使いません。


そして、暖をとるのに役に立ったのが、

「湯たんぽ」でした。

お湯を沸かし、「湯たんぽ」を布団の中に入れておくだけで、

暖をとることができます。

余震の恐怖に怯えることがありませんでした。


前にブログで書きましたが、それは「ラジオ」です。

ラジオから流れる「緊急地震速報」や大震災のローカル情報は、

わたしに安心を与えてくれました。


それから、「冷蔵庫」

停電しても、冬だったこともあり、7日ぐらいは、冷凍してい食品は、

腐らず食べることができました。

ちょうどよく解凍されていました。


これから、夏場に掛けて、電力不足から、停電が予測されています。

ペットボトルを凍らせておき、入れておくだけで、

夏場でも1日ぐらいは、冷蔵庫の室温が保たれることと思います。



それでも、我が家でも失敗がありました。

それは、「懐中電灯」が壊れていたこてです。

ロウソクがありましたが、何度も起こる余震のために、使うことをためらいました。

「懐中電灯」は必要です。


「携帯電話」の充電もすぐなくなり、外部との連絡をとることできませんでした。

緊急時の連絡の確保は、課題になりました。

それは、我が家の「リスクマネジメント」としては、失敗です。



今、振り返ると、偶然がかさなり、何とか、大震災後の停電を乗り切れたのでは

ないかと思います。


食料品も地震前に買っていました。

あのときは、何かに取り付かれていたように買い物をしていました。

ガソリンも入れたばかりです。


ことわざで、備えあれば憂いなしと言います。

それが、「リスクマネジメント」の第一歩だと思います。






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[2011/04/07 07:58] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(0) |
コウナゴから放射能物質検出!
東京電力によると、4月4日午後7時から、

福島第一原子力発電所が、15,000トンの放射能に汚染された水を、

海に放出する、と発表しました。


この放射能に汚染された水は、第5、第6の原子炉を

冷やすために使われた水です。

その放射の基準は、通常のの500倍に達し、およそ20ベクレル

相当になります。


もし私達が、一年中毎日、魚を食べ続けたとしても、

被ばく線量は、0.6ミリシーベルトです。

専門家によると、この量は、自然界から受ける放射能の4分の1になると

説明していました。

(『河北新報2011年4月5日の記事』より一部要約)



そして、茨城県沖合いで取れた小魚コウナゴからは、4080ベクレル

1キロあたりのヨウ素131)が検出されました。



新聞報道によると、福島第一原子力発電所から茨城沖に流れ着いたものと

説明していました。



その「コウナゴ」から放射能検出の発表直後では、

まだ、日本政府は、魚に関する放射能基準を設けていませんでした。


その後、政府は暫定ではありますが、魚にも「食品の暫定基準値」

を遅まきながら、発表しました。




「食品の暫定基準値」(1kgあたりのベクレルの値)

(放射性ヨウ素)

飲料水、牛の原乳、乳製品    300

野菜類(根菜類、芋をのぞく) 2000

※放射能量の半減期(約8日間

※茨城県沖のコウナゴからは、暫定基準値を超える4080ベクレル(1Kgあたり)の検出。



(放射性セシウム) 

飲料水、牛の原乳、乳製品       200

野菜類、穀物、肉、卵、魚介類、その他 500

※放射能量の半減期(約30年


これからも、このduck4のブログでは、「福島原発」については、

報道された内容をもとに、客観的に書き込むことを努めていきます。


(参考資料)

・河北新報2011年4月5日記事より

・河北新報2011年4月6日記事より






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[2011/04/06 08:03] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
原発関連の危惧するニュース!
私達が危惧して由々しきニュースが報道されました。


福島第一原発事故から、低濃度の汚染水が、海に放出。

というニュースです。

環境基準の500倍と言われいます。


放射能物質が低濃度とは言え、海に放出するということは、

海の生態系にも影響を及ぼし、わたしたちが食べている「さかな」

も汚染されることでしょう。


そのため、海の放射性濃度の値の

一刻も早く政府機関からの公表をしていただきたいものです。


それから、ノルウェーの研究所では、

日本列島周辺地域での、放射能物資が大気中に拡散する

分布予測を公表しています。

そのため、韓国は、ノルウェーの研究所が、公表している分布図を使って、

ニュースの中で放射能物質が到達することを報道していました。


これは、わたしの意見ですが、

この放射能物質の拡散分布図を、日本の気象庁でも是非とも、

国民に対して公表して欲しいものです。


正しい放射能物質の情報公開は、わたしたちに安心、安全をもたらします。

そして、風評被害やパニックを抑える効果もあるからです







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[2011/04/05 08:10] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
救援された犬のニュース!
3週間。

気仙沼市の沖合いで、

瓦礫の上にいた「犬」が、4月1日午後5時ごろに、

海上保安庁の特殊救難隊によって救護されました。


専門家の話によると、「犬」の場合は、

人間よりも生命能力が高く、

2週間ぐらい、生き延びることができるそうです。


この「犬」場合、3週間以上も、海という悪環境の中で、

充分な水分、栄養を取ることなく、生き抜いたことは、

奇跡でした。


4月4日午後2時半ごろ。

気仙沼沖で救護された犬は、飼い主と24日ぶりに再会。


その犬の名前は「バン」と言います。


新聞報道によると、「バン」は、当初、陸上にいたものの、

その後、屋根の上にのって、流されたのではないかと、推察されています。



生存して、発見された「バン」のニュースは、

大震災後、わたしたちに、小さなキャンドルライトのような明るさを、

伝えるものとなりました。


新しいイメージ


(河北新報 2011年4月3日朝刊の記事より)






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[2011/04/05 07:59] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
避難所生活!
Tさんは、東日本大震災による津波の影響で家がながされ、

避難所で3週間以上たった今でも、生活をしています。

そのTさんは、宮城県石巻市在住のかつての元教え子です。


Tさんは、電話で中、大震災と津波が来たときのことを

次のように、わたしに話していました。


ちょうど、大震災のあった3月11日には、非番で、自宅にいました。

地震の直後。

津波が来るということで、近くの避難場所になっていた学校へ、

体の不自由な父、母とで避難しました。

飼い猫と自動車を置いていきました。

それ以後、飼い猫とは、行方不明になっています。


初めに、逃げた避難所は、低地にあり、津波の影響があり、

また、高台の避難所へ逃げました。

家族の命は、助かったのです


そして、3週間以上たった今でも、避難所の生活をしています。

その退避している石巻市のとある避難所では、

炊き出し行っているため、食べること。

衣類の配給はありました。

暖房は、室内にストーブがあり暖をとっている状態です。

入浴は、週1回、自衛隊が行っています。

そのため、近くの温泉施設で入浴をしに行くそうです。


しかし、避難所の生活は、劣悪な環境です。


現在、Tさんの健康状態は、避難当初より風邪を引いている状態が、

続いているそうです。

今日は、熱があると言っていました。

それから、Tさんのお父さんですが、避難所での心労で病気が悪化して、

仙台市の病院へ入院しています。


Tさんのお話を聞いていると、避難所生活の過酷さが伝わってきます。


Tさんは、今、高齢者のグループホームで働いています。

自宅から職場へ通う自動車が流されたので、

通勤手段がありません。

そこで、グループホームを運営する会社は、送迎をしているそうです。

しかし、勤務は、過酷で2泊3日のシフトになっています。

過酷な勤務シフトです。


Tさんの一家は、仮設住宅の入居への申請をしています。

しかし、ひとつ困っていることに、

職場から、遠い場所の仮設住宅になったときには、通勤できないため、

仕事を辞めなければならないと言っていました。


Tさんのお話をしていて、わたしは「これでいいのか」と思いました。


しかし、今、わたしのできることとしては、

この「Duck4」のブログを通して、東日本大震災の実情を伝えることだと思い、

連載を続けています。


この大震災を案じている、ブログの読者の皆々様の一助になればと

思っています。


そして、入院中のTさんのお父さんのお体が回復すること。

職場の近くに、仮住まいの仮設住宅へ住めることを、

わたしは、仙台から祈り、願っています。









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[2011/04/04 07:43] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
ラジオの力!
あの東日本大震災。

ラジオは、わたしに、安心を与えてくれました。


地震直前。

わたしは、ラジオを聴きながら作業をしていました。

すると、ラジオからは、「緊急地震速報」が流れました。


そして、10秒後。

およそ3分間の恐怖の揺れが続きました。


今、振り返ると、あの「緊急地震速報」は、とても助かりました。

これから、始まる、恐怖への備えが出来たからでした。


地震発生後。

わたしは、思いました。


この巨大地震は、長丁場になる。


電気も使うこともできなくなり、情報を得るのは、ラジオのみになる

と、直感的に思いました。


そこで、コンビニエンスストアに行って、乾電池を買いました。

そのわたしの考えは、正解でした。


停電後、わたしは、地元のラジオ局、東北放送を一日中つけっぱなしにしていました。


真っ暗になり、余震のたびに、家が崩壊するのではないかという

不安に恐れながら、その晩を過ごしました。


そして、余震後も、何度ともなく「緊急地震速報」が流れました。


アナウンサーからは、「どうか身の安全を確保してください」

というアナウンスがされました。


そのアナウンサーの声に、どれだけ助けられたことか。


地元の東北放送のラジオでは、リスナーから寄せられる、

安否情報を可能な限り、流し続けていました。


例えば、学校に避難しているから無事。

老人ホームの利用者さんは無事。


という公共施設に避難、退避されている人々の安否情報

を知ることが出来ました。


東北放送ラジオは、地震直後の情報をいち早く、

流してくれたので、とても助かりました。

津波で想像を絶する被害を受けたというのもラジオで知りました。


これは予断になりますが、

停電でテレビが見られなかったから、良かったのかも知れません。

津波で流されていく映像を見なくてすんだからです。


その晩は、津波で孤立した避難、退避されている人々の場所へ、

救援ヘリコプターの救いのエンジン音が、鳴り響いていました。


大震災の翌日。

地元の東北放送を受信することができなくなりました。

そこで、NHKラジオに周波数を合わせ聴くことにしました。


アナウンサーからは

「場所によっては、震度6強の余震が、90%起こります」

ということが放送されました。


あの報道には、とても、不安を覚えました。


余震や緊急地震速報が流れると、不安になり、強いストレスも感じました。


ただ、家は大丈夫かという思いだけが募りました。



余震から3日後の朝。

ラジオからは、初めて音楽が流れ聴くことが出来ました。

そのときに聴いた曲は、アニメの「アンパンマン」ソングでした。


大震災後、初めて音楽を聴けたときの感想は、

音楽を聴けて良かった。

生かされて良かったと思うだけでした。


ラジオから聴こえてくる音楽によって、恐怖から解き放たれ、

わたしの心は、癒されていったのです。



CIMG7306.jpg

(愛用のラジオ)






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[2011/04/03 12:59] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(4) |
3週間かかったデンマークへの国際小包!
「日本からの小包が、3月31日にデンマークへ着いた」

と、デンマーク人の友人からメールが届きました。


その友人は、メールの中で、


あなたの荷物は、日本から、デンマークに着くのに、

3週間かかりましたね。


と書いていました。


その友人は、日本で押された消印から、わたしが

東日本大震災の前日。

3月10日に、郵便局へ預けたことがわかったのでしょう。


そのデンマーク人の友人は、簡単な日本語を読んだり、

書いたり、話すことが出来ます。


そこで、わたしは、友人に、童話『鶴の恩返し』をお誕生日プレゼントを

送りました。


友人の感謝のメールによると、『鶴の恩返し』は、

少々難しいと言っていました。

そこで、わたしは、英語版の『鶴の恩返し』のあらすじを

デンマーク人の友人へ送ろうと思っています。





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[2011/04/02 06:55] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
ガソリンの大切さ!
震災後、仙台市内では、ガソリン不足が続いています。

ガソリンスタンドの前では、給油待ちの長蛇の車列が、

並んでいる光景をよく見かけます。

そのため、ガソリンスタンドでは、整理券を配り、対応しています。


しかし、ガソリンスタンド側でも対応をとっても、

給油待ちで停車中の車に、追突するという事故も報告されています。




震災から3週間。

ガソリンは、出回り始めました。

港にも、石油を積んだ大型タンカーも入港しました。

タンクローリーもピストン輸送をしています。


しかし、ガソリンの流通が開始されても、

ガソリン不足は続いています。

その理由は、ガソリンスタンドが、地震や津波により被災されていて、

開店できない店舗もあるからです。


わたしが、石油や灯油を購入していたガソリンスタンドも、

3月11日以降、閉店していて、開店のメドが立っていません。


何とか、超省エネをして、仙台でも朝方には氷点下になった、

寒いこの早春を乗り切りました。


高齢者のリハビリサービスを行っているわたしの知人は、震災当初。

「ガソリンが手に入らないので、高齢者の送迎ができません」

「今は、ガソリンが手に入るまで休業します」

とおしゃっていました。



わたしたちの生活は、ガソリンが、なくなると成り立たなくなります。


緊急時の搬送もできません。

物資が流通できません。

自動車を動かすこともできません。

暖をとることもできません。


わたしたちの経済活動が、完全にストップしてしまいます。


震災から10日ごろまで、仙台では、ガソリン不足のため、一般車両は、夜になると、

ほとんど走っていませんでした。

救援支援のための自衛隊の車両。

救急車。

消防自動車。

警察関係のパトカー。

ナンバーを見ると、全国各地からの暖かい支援のための緊急車両でした。


震災後、2週間。

ガソリンが、少しずつ、流通し始めと、

国道は、かつての震災前よりも、渋滞がひどくなってきたようです。


これは、わたしの感想ですが、

ガソリンが、流通し始めたことにより、少しずつ、経済活動が、

活発化されたようなに思います。





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[2011/04/01 07:52] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
震災ゴミ!
宮城県の推計によると、23年分のゴミが、この大震災で発生したと

発表していました。


宮城県の沿岸地域は、津波の影響により、甚大な被害を被りました。

低地では、海の水が引かないところもあります。

そして、今でも、津波で漂流してきた、流木、家、車などが放置されたままです。

片付けることができないでいます。


それから、家族写真やアルバムなども、家から流されて、あります。

写真やアルバムは、家族にとって大切なものです。

一刻も早く、多くの持ち主のもとに、戻ることを願います。


その震災ゴミですが、あまりにも大量の被害のため、県だけでは負担できないため、

国が、財政的な負担をするようです。



さて、我が家でも地震の影響で、

家具。

食器棚。

電化製品などが倒れ、壊れました。


地震直後には、多くの食器が割れ、ガラスが床いっぱいに散乱していました。


仙台市の多くの家庭では、地震や津波の影響で震災ゴミが発生したかと思います。

そこで、市は、各区ごとに震災ゴミの集積所を設けました。


わたしは、宮城野区日の出町にある野球場が、震災ゴミの集積所になっていて、

持って行きました。

おかげで、家の震災ゴミが片付きました。


行政も、復興の第一歩として、瓦礫の撤去に力をいれています。

瓦礫の整理なくして、甚大な津波の影響を受けた地域の復興は、ありえないからです。




CIMG7249.jpg

(日の出町の野球場の震災ゴミの様子:電化製品の震災ゴミ)

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(日の出町の野球場の震災ゴミの様子:家具などの震災ゴミ)





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[2011/03/31 07:37] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(0) |
「復旧」から「復興」への第一歩!
春の選抜甲子園の大会で、宮城県からは、

東北高校が、1回戦に登場。

大震災後、東北高校の球児たちは、被災した方に、

ボランティア活動を行っていました。

残念ながら、試合の方は、負けてしまいました。


しかし、全国から、被災地域の宮城県へ暖かい声援に感謝いたします。


次に、若い人たちの話をします。

被災された地域に住んでいる中学生、高校生が、

一生懸命に炊き出しなどのボランティア活動していました。

子どもたちの中には、津波などで最愛なる家族を失った人もいたことでしょう。

しかし、悲しみを抑えながらも、ひたむきに打ち込む姿には、

心を打たれるものがありました。


これは、わたしの意見ですが、

若い人たちの力が、大震災で被害を受けた地域の復興。

ひいては、日本の「復活」の原動力になると、わたしは、信じています。

若い人たちの力が、未来の日本を救うと。



それから、大震災後、世界中の国々から多くの暖かい支援を受けてきました。


そのひとつが、イスラエルの医療団が、宮城県南三陸町に、

医師、看護師、検査技師の方々が、入り、診察を開始しました。

プレハブの仮設診療場を建て、診療を行っているそうです。

診療科目は、内科、小児科、産婦人科、整形外科です。

日本との医療チームと連携、指示のもとに診察が行われています。


今まで、全世界の130ヶ国から大震災の支援を受けています。

とても、とても感謝しています。


日本は、世界に見捨てられていないのだと、感じる瞬間でもありました。


まだ、復旧作業は、続いています。

特に、仙台市内の場合は、津波の被害を受けた地域では、

水道、電気のインフラの復旧のメドすらついていません。


わたしが、住んでいる宮城野区でも、ガスは、まだ使えません。

順次、安全が確認された段階で使えるようになるそうです。

ガス局の発表によると、1ヶ月から2ヶ月以上かかるとのことでした。



震災当初は、

自衛隊のヘリコプター。

自衛隊の車両。

消防の緊急車両。

警察関係の車両。

などがサイレンを鳴らしながら、国道45号線から

甚大な津波の被害を受けた「蒲生地区」に、人命救助のため朝7時になると

我が家の前を通過していきました。


CIMG7256.jpg

(蒲生地区を通過する自衛隊のジープ)


自衛隊、消防、警察などの献身なる救援のおかげで、多くの尊い人命

が救われました。

おかげで、復旧から復興へ向けて、仙台が歩み始めることが出来ました。

彼らの勇気ある行動に、とてもとても感謝しております。



最近では、緊急車両の通過が少なくなり、

石油を運ぶタンクローリー。

大手流通会社のトラック。

一般の自家用車が、国道45号線を走るようになってきました。

渋滞もひどくなってきました。


全国、全世界からの支援により、

「復旧」から「復興」へと仙台が、歩み始めた証なのでしょう。






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[2011/03/30 07:46] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
大震災後の国際郵便事情!
大震災前に、わたしは、デンマーク人の友人に郵便を送りました。

昨年の10月に、日本へいらっしゃった友人です。


そして、壊滅的な被害を受けた、宮城県南松島市の野蒜海岸を

私達は、散策しました。

そのことは、わたしのブログ。

「デンマーク人の日本旅」でも紹介しています。


わたしは、そのデンマーク人の友人に、お誕生日プレゼントを贈りました。

そして、郵便物を抱えて、いつも行っている郵便局へ向かいました。


その郵便局員さんから、EMS(国際スピード郵便)を進められました。

しかし、SAL(飛行機の貨物室に搭載可能のとき、郵便物を載せる事ができる)

を選びました。

それは、料金の関係もあったからです。


わたしは、3月10日の午後に、仙台市の宮城野区にある郵便局に預けました。

そのまま、郵便物がスムーズに行っていたら、

震災のあった3月11日には、成田空港に到着していて、

わたしの国際郵便は、デンマークへと旅立っていたはずです。


EMS(国際スピード郵便)の場合は、荷物がどこにあるか確認するすべがあります。

しかし、わたしが利用したのは、SAL(空いていたら郵便物を搭載できる)です。

わたしの郵便物は、確認できません。

行方不明です。



そのデンマークの友人とは、しょっちゅうメールや、スカイプーをします。

震災後には、何度もメールを送受信しています。

彼女のメールの中で、わたしの郵便物が届いたという記載はありません。

メールには、日本を心配するものです。


クリスマスのときにも、そのデンマークの友人に、国際郵便を送りました。

すばらしい、クリスマスプレゼントも頂きました。


そのときは、やはり料金の関係でSALで送り、デンマークに到着するのに、

3週間ぐらいかかったかと思います。


前回、友人から頼まれて、書道家の工藤先生の作品を送ったときにも、

SALで送りました。

そのときには、約1週間で到着しています。


今回は、日本にとっても、世界にとっても非常事態。

原子力発電所からの放射能漏れが、今も続いています。


ヨーロッパへ向かう、成田空港を出発する航空便の一部は、

キャンセルになったり、ドイツのルフトハンザ航空のように、

ソウル経由に振り替えられています。


ちなみに、わたしが、デンマークに行くときに使う、

スカンジナビア航空は、燃料の関係でキャンセルとのことです。

おそらく、原発から放射能漏れが原因していることでしょう。


デンマークの英字週間新聞『コペンハーゲンポスト』(電子版)には、

日本から到着した客に対して、放射能検査を行っていた写真が

掲載されていました。


これは、わたしの推測の域ですが、

郵便物が、成田空港にあるか、もしくは、運よければ、

コペンハーゲンのカストロップ空港

に置かれたままではないか、とわたしは思います。



大手運送業者さんのドライバーさんの話ですが、

仙台では、あまりの小荷物の多さに荷物を降ろすことが出来ず、

70台ほどが、搬送センターに待機している状態だそうです。


しばらく、混乱は続きそうです。





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[2011/03/29 06:42] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
物流の改善!
東北の大動脈。

東京と青森を結ぶ、東北自動車の全線が、

3月24日(木)に、一般車も通行可能になりました。


これで、トラック輸送による物資の運搬も、比較的容易になることが、

期待されています。


一方、仙台市内では、ガソリン不足が続いています。

ガソリンスタンドに、並んでも購入できない状態が、続いていました。

そのため、ガソリンスタンドの前には、車が、長い列で並んでいます。


CIMG7245.jpg

(ガソリンスタンドの前で並ぶ自動車)


スーパーマーケットでは、私たちが、長時間並ばずに、店舗に

入場することが出来るようになりました。

しかし、精肉、鮮魚は、まだ入荷されていません。

私たちが、選んで好きなものを買うという状態になるのは、

来週以降になるでしょう。


仙台と八戸を結ぶ国道45号線、沿いの一部のコンビニエンスストアは、

営業を開始し始めました。

しかし、店舗には、おにぎり、カップラーメン、おでん、雑誌など

大震災前の2割ほどの品揃えでした。


それから、我が家では、震災から15日ぶりに、

鳥肉と豚肉を購入することができました。

久しぶりに、動物性タンパク質を取りました。


物流の改善。

それは、東北自動車道を使って自由に物が運べるようになったことで、

今よりも、津波により被害を受けた沿岸地域にも、

物資が円滑に運ばれることを願っています。






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[2011/03/26 06:44] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
津波の傷跡!
大震災から、15日目が経ちました。

しかし、その被害は、あまりにも甚大で、津波の影響を受けた地域では、

復旧のメドも立たないところも、多々あります。


宮城県でも特に、沿岸地域。

山元、亘理、岩沼、名取、仙台市若林区、宮城野区、

多賀城、七ヶ浜、塩釜、利府、松島、東松嶋、石巻、

女川、南三陸、そして気仙沼は、甚大な津波の影響を受けているため、

まだ、詳細な被害状況も把握できない状況と、

新聞、テレビ等のメディアでは、言っています。


わたしの住んでいる、仙台市宮城野区福室地区は、太平洋から5キロ

以上内陸だったので、津波による冠水の影響から免れました。


しかし、太平洋から5キロ圏内の地域。

仙台市宮城野区の場合は、蒲生地区、仙台港、出花地区まで、

津波による被害を被りました。


海沿いを走る、仙台市内、多賀城市、塩釜市に向かう、

国道45号線や産業道路では、

大震災から10日以上経っても、道路の左側車線には、

自動車が放置されたままになっています。


地震も怖かったです。

しかし、もっと、もっと怖かったのが、津波でした。

一瞬のうちに、われわれの大切な財産や命を

無残にも、のみこんでいったからです。


自然を目の前にして、人間の無力感を思わずには、いられません。


CIMG7216.jpg

(津波の影響で車が放置される:多賀城市町前地区)


CIMG7239.jpg

(国道45号線:多賀城市八幡地区)






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[2011/03/25 05:43] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(4) |
知人の安否確認!
母親の知人は、宮城県七ヶ浜町の「松が浜地区」。

「菖蒲田浜」に住んでいます。


わたしは、母に頼まれて、一緒に、七ヶ浜町に行って来ました。


そして、松が浜にお住まいの知人とは、会うことが出来ました。


この七ヶ浜町の「松が浜地区」は、仙台火力発電所に近く、

大震災と津波のあと、火災を起こし、数日間、燃え続けました。


その知人が、次のように言っていました。

「避難所には5日間いました」

「避難された方で自由に歩くことが出来ませんでした」

「一番困ったことは、トイレに行くときです」

「人をかき分け、行かなければならないことでした」

「そして5日目にして、避難所の小学校から自宅へ戻ってきました」


私たちは、無事を確認でき、とても安心しました。


それから、私たちは、菖蒲田浜の知人のところに行きました。

夏になると海水浴客で賑わうビーチがある所です。


七ヶ浜町のホームページによると、津波の被害に遭われた地区であることが、

推察されます。

県道の途中からは、通行止めの看板がありましたが、進んでみました。


菖蒲田浜の知人の家に着きました。

すると、家は、住める状態ではなく、誰もいませんでした。

その母の知人は、大震災と津波のあった日には、仕事で会社にいました。

その会社で働いている知人から、情報を聞きました。


でも、心配で行きましたが、会うことが出来ませんでした。


連絡がつかないので心配です。

知人の家族が、無事でありますことを、心より願っています。

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(菖蒲田浜地区)





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[2011/03/24 06:45] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
外部との連絡が取れた!
電気がついた時の感動は、今でも、忘れられません。


わたしは、電気がつかなかったときに一番困っていたこと。

それは、真夜中に、余震が起こることです。

これは、とても恐怖です。

なぜなら、真っ暗で何も見えないからです。


次に、困ったことは、外部との連絡が全く取れなかったことでした。


停電のため、電話は使えません。

携帯電話も充電できません。

そして、ソーシャルネットワークの一部であるブログも書き込むこと

が出来なかったからです。


電話が繋がった後に、知人の高橋さんから連絡を頂きました。

「わたしは、毎日、あなたのブログ読んでいました」

「書き込みがなく、心配していました」

ブログが、わたしの安否確認のひとつになっていたのです。

これは、驚きです!


また、嬉しいことに、元教え子のkさんから5年ぶりに連絡がありました。

「わたしは、札幌で生活しています。結婚して子どももできました」

「仙台のことが心配して電話しました」


わたしにとって教え子kさんの電話は、とても嬉しかったです。

その教え子は、石巻の友人も心配だったようです。

安否を知りたかったようでしが、わたしには、わかりませんでした。


わたしにも、石巻にいる他の元教え子と連絡が取れずに心配をしていました。

その教え子とは、10日目に、無事であることが確認でき安堵しています。



それから、ホイスコーレに一緒に留学していた、もえさんやようこさん。

ホイスコーレ札幌の生越さん。

ハンガリー人のトマスさんやクララさん夫婦。

デンマーク人のキアステンさん。

デンマーク人のドーラさん。


励ましの言葉を頂きありがとうございました。






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[2011/03/23 06:31] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(4) |
9日間の停電!
地震が起きたのは、3月11日の14時46分。

それから、停電の中で、丸9日間、

余震に怯えながら生活していました。


そして、まもなく、携帯電話のバッテリーも切れ、全く、

外部との連絡もとることができなくなりました。



そのときに思うこと。

親戚、友人、知人は、今、無事だろうか?

着信記録が、入っていても、通信規制をしているので、

なかなか相手につながりません。


震災から5日後。

小中学校の同級生の自宅で、携帯電話の充電をさせていただきました。

とても感謝しています。


そして、何人かの親戚、友人に連絡することができました。

携帯電話は、まもなくバッテリー切れ。


我が家の周りは、送電が開始され、電気がつき始めました。

しかし、我が家の一画だけは、停電が続きました。


まさに、ライフラインがない「陸の孤島」です。

やっと9日目(3月19日)にして、送電が開始され、

水道と電気は、使えるようになりました。


まだまだ、ライフラインが復旧していない地域は、

東北地方の太平洋側には、たくさんあります。


これからも、極力、電気の使用をせず、「節電」に協力していきます。






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[2011/03/22 06:05] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(8) |
買出しのときの人の暖かさ!
食料品の買出しは、大変です。

仙台では、行列に並んで、買い物をします。


我が家の目の前には、農協の直売所があります。

普段なら、農産物をたくさん販売しています。


しかし、この大震災で、多くの農家さんも被災して、出荷できないそうです。

ある農家さんとは、まだ、連絡が取れていないとのことでした。

その話を聞いて、わたしは、

その農家さんが、無事であること、ただただ、祈るのみです。


いつも農協は、10時に開店します。

この大地震以降は、朝の8時ごろから、すでに並び始めます。


10時に開店。

店内への入場は、10人までの人数制限。

一人あたり7品までの買い物制限を掛けています。


買い物客の中には、2時間以上も並ぶ人もいます。

その中で感心することは、

列に横は入りをせずに、整然と並んでいることです。


また、買い物制限を掛けているので、買占めをするお客さんもなく、

東京などで報道しているような、混乱は、全く見られませんでした。


列に並んでいると、今まで会ったことがなかった人との

地震の話になります。


余震で眠れなかった。

あの地域は無地だった。

津波が来て流され助かった。

などなど。


買出し後に、ひとりのご婦人と娘さんから、うどんを頂きました。

千鳥屋の製麺場で、無料で、地域の人々に麺類を配って貰ったそうです。

それを、娘さんが走って家まで取りに行ってくれました。

そのうどんをご婦人と娘さんから頂きました。

とても感謝しています。


それから、漬物を作っているおじさんが、農協の駐車場にやってきて、

集まってきた人々に、ただで漬物を配っていました。

おじさん曰く、

「B級品なので、ただで配ります」

と言っていました。

その言葉の温かさに感動しました。

とてもおじさんには感謝しています。

そして、ありがたく美味しく頂戴いたしました。


生死を分ける自然災害を経験した私たち。

大変な思いをしている人々は、東北・関東地方には沢山います。


しかし、この大地震によって、

何があっても、助け合って生きていこう日本人の強さとやさしさ

を、わたしは、強く感じました。


CIMG7169.jpg

(買出しの行列)






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[2011/03/21 11:24] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(0) |
余震に怯える日々!
仙台市宮城野区の震度6強の地震。

初めての地震の夜。

もちろん、水道、電気、ガスは使えず。

唯一の情報源は、「ラジオ」だけです。

この「ラジオ」は、とても助かりました。


夜になると、ラジオからは、「緊急地震速報」のチャイムがなります。

また、地震か!


今度、地震が来れば、家は壊れるのではなかという「不安」の二文字だけが、

脳裏を駆け巡りました。


そして、ラジオ中継で、専門家が言っている、

この1ヶ月以内に、震度6以上の余震が起こるいう情報が、

逆に、不安を助長しました。

わたしたちは、強い余震が来ることは分かっているからです。


真っ暗な真夜中。

ラジオからはチャイムが鳴り、

「緊急地震速報発令。宮城県の人は注意してください」

という言葉を聞くと、いつまた大きな地震がくるのか、

家が壊れるのではないかという

不安で不安でたまりませんでした。


それからも、その余震が昼夜関係なく続いていったのです。

とにかく、夜が来るのが、今でも怖いです。






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[2011/03/20 06:59] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(6) |
大地震!
3月11日 金曜日。

14時46分。


大きな揺れが、3回続いたかと思います。

2分半以上揺れて、やっとおさまりました。


わたしは、その地震のとき。

仙台市の宮城野区にいました。


震度6強。

このような揺れは、生まれて、初めての経験です。

死ぬかと思いました。

もう少し、太平洋側にいれば、津波にのみこまれていたので、

ぞっとします。


今、思うと、「生かされた」という実感しかありません。

家族、親戚、友人は、無事でした。


しかし、一部の知人とは、まだ、連絡が取れていないので、

とても心配です。


わたしの家も今日まで、停電。

やっと9日目にして、ブログを書くことができました。





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[2011/03/19 23:06] | 大震災から | トラックバック(0) | コメント(2) |
プロフィール

duck4

Author:duck4
ニックネーム:ダック4(Duck4)
趣味:旅行、バードウオッチング(アヒル・ハクチョウ)
小著:『ヒュッゲの国からデンマーク流人生の楽しみ方』
(本の森出版)

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duck4の定点観測ポイントの川には5羽の滞在組のハクチョウさん。大空を飛ぶことができませんが、元気に毎日、川を泳いでいます。この地域の人々にも愛され続けているハクチョウさんたちです。これからも、定点観測ポイントにいる飛べないハクチョウさんのこと中心にブログを配信していきます。今後ともに、宜しくお願いいたします。ブログ主宰者duck4より!

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